夜が深まり、全員が寝静まった頃。
「本ばかりだな……」
「道中で拾った本を置いておく場所として使っているからな。どうせ見張り番で火の側で寝るから、空けておく必要もなかった」
ヴァリスとアスタリオンは寝袋を抜け出し、今晩はアスタリオンの提案で他のテントから離れているヴァリスのテントで吸血を行うことになった。
ヴァリスは無造作に散らばっていた本を何冊か毎の山に分け、端に寄せる。まだ置き場所に困るほどの冊数ではないからか、少し整理すればエルフ二人が横たわるには充分な空きが出来る。
「もう少し片付けたらどうだ?」
「今日は整理中だったんだ。……善処する」
血が欲しくても片付けるのを大人しく待っているアスタリオンは紳士のようにも見えて、ヴァリスは最近、待たせている間の赤い瞳に苛立ちが混ざっていくのを見極めれるようになってきた。
空いたスペースに予備の寝袋を敷いてヴァリスが仰向けに寝転がると、血を吸うために覆い被さってきたアスタリオンの瞳に自分が映り込んでいるのを見た。
飢えと血の予感に赤い瞳が輝くと苛立ちは消え失せ、愛おしそうに細められる。最初は痛々しいほど下手だった彼の愛情の演技も、すっかり上手くなった。
「待たせたな、アスタリオン」
彼にとっては獲物を側に置いておくための手法で、冗談や戯れの一つだとしても、私にとっては人生で初めて、ただ一方的に与えるだけでなく求められ与えられる愛だ。
肉欲しかなくても構わない。肉欲しかないからこそ、少なくとも私の身体は求められるという形で愛されていて、その欲望を私は受け取ることが出来る。
彼と真に心が通わなくとも、彼を守ることが出来るように。
「おいで」
首筋を見せ付けるように顔を少し左へ向ける。
彼へ血と心を与え、牙と体で応えられる。虐げられ、報われることの無かった彼が望む小さなご褒美。
物語に出てくるような崇高な愛情とは違うが、その落差ですら愛おしい。
「ああ、お前は本当に……」
首筋に熱の薄い吐息がかかり、氷の牙が私の肌を突き破る。
「ッ……!」
一瞬だけ痛みが走るが、すぐに甘い痺れへとすり替わってしまう。
彼の下劣な肉欲を満たしたあの日、戯れに首筋を差し出してしまったばかりに、私の身体はこの感覚を悦楽と結び付けていた。
「あ……ッ、は、うぁ、あぁッ……!」
喉から苦痛とは程遠い甘い吐息混じりの唄がこぼれ、思わず彼の身体に縋り付く。
加えて、本来抱くべき生命を失うことへの根源的な恐怖は私の感情から薄れて久しかった。最初に血を吸われた時はいつ死ぬかも判らず早々に止めろと伝えた覚えがあるから、最初は恐ろしくてたまらなかったはずだったのに。
今では死こそ恐ろしいものの彼は加減をよく分かっているし、その先も求められると知ってから応えることばかり考えてしまう。
心ゆくままに人の求めるものを与えて満たすのは、ひどく気持ちがいい。磨き続けてきた芸だけでなく、あの狭い家で稽古と称して仕込まれた穢らわしい体でそう感じられるとは思っていなかった。
「ダーリン、お前の血は格別だ」
牙が離れ、幾許か湿った吐息と共に賞賛が漏れる。
数時間前の疑問が再び脳裏に浮上した。私の血は、一体どんな味がするのか?
「……どんな味なんだ?」
聞けば目の前の目が僅かに見開かれた。意外な質問だったのだろう。しかしすぐ面白そうに口を三日月に歪ませて、彼は語り出した。
「そうだな……まず、お前の血は刺し込んだ牙が溶けそうなほど甘い。それから酸味がひとつまみ。これがお前の血を余計に甘くしている」
「甘いのか」
「俺が今まで味わってきた血の中で一二を争うほどだ。慈悲、献身、それから愛情……お前の優しさ全てが表れている」
私の優しさを語るアスタリオンからは揶揄い程度の性悪も消え失せ、愛する人のことを口にしている風に柔らかく笑う。
本当に演技が上手くなった。心の底から彼に愛されている気がする。
私が二百と五十年かけて磨いた技術も、天賦の才でもって一月足らずで越えられてしまえばいっそ清々しい。
「だが甘いだけじゃない。聖騎士の誓いにも似た信念の酸いもそうだが、俺の舌はお前の血から塩味と苦味も感じる。塩味の方は芸の研鑽が如何に長いのか示すかのようにまろやかで、お前の愛情の邪魔は決してしない。苦味は刺すように舌に来るが、どこか遠いままだ」
「なるほど、想像以上に複雑だな」
ヴァンパイアの味覚だと血はあの鉄錆の味ではなく、全く違う味がするようだ。
しかも相応に複雑な味覚だ。ヴァンパイアは血の匂いや味わいに対しては恐ろしいほど鋭敏だと聞くが、彼にここまで語らせる程とは。
「……それから、セックスをしていると甘辛くなる」
急に愛おしい微笑みから一転して、アスタリオンに性悪さが戻った。ニヤリと笑った顔が更に近寄ると、彼の脚が私の脚の間に割って入り、自然な形でありながら強引に膝で脚を裏から持ち上げられ、そのまま開脚させられる。
「え、うぉ……!?」
毎度思うが――とんでもない手管だ。美しい顔に視線を奪わせて主導権を握り込むなんて、己の美貌をよく理解していなければ出来ることではない。
「お前の血を味わってから、俺はすっかり甘い味を好むようになった……お前が際限なく与えるせいでな。獣の躾はお前のアヴェルヌスまで届く特技のリストには載っていないのか?」
彫刻のような蒼白の指先がまるでナイフの切先のように働き、血の詰まった果物が纏う“皮”を剥いていく。分かりやすく芯を持った箇所を避けて。
ああでも、お前が獣だなんて! 心外だ!
「馬鹿を言うな、お前は獣じゃなくて私の恋人だろう? 恋人を甘やかして、一番に想って何が悪いんだ?」
少なくとも、私にとって恋人の振る舞いは演技やペテンではない。
ハグの棲家の近くでは哀れなガー人の狩人を彼と結託して殺し、今はデヴィルとの取引のためにオルソンを探し出そうとしているのは、彼と彼が手にする自由を想っての事だった。
私にもかつて自由のない時期があった。地下牢獄よりも冷たく、九層地獄よりも気紛れで理不尽な怒りが飛んでくる場所――我が家に五十年も閉じ込められ、一歩たりとも出る事を許されなかった。
あの場所で唯一の同居人である父親に求められたことは演技と楽器演奏、つまりは芸だった。性的な奉仕は前者に含まれていた。
幸いにも私は何かを演じ、演奏をする事は好きになれたから耐えられた。今思えば、そうやって自分自身を一生偽らなければ耐え切れなかっただけかも知れないが。
芸が好きになれたのは本心からのものなのか、無意識のうちに実行した自己暗示の成果なのかは、もう私にも分からない。
目の前のヴァンパイアも似たような境遇だった。いやもっと酷い。
二百年。私が父の死を以て己を解き放ち自由を謳歌する間、彼はずっと苦しんできたという。
たかが一介の芸人風情が、彼の何を救えるのか。
幼生が頭に入る以前なら心を救うと豪語してみせたかもしれないが、今は分からない。彼の何を救うにせよ、ティーフリングの難民達を救うよりも、ハルシンを手伝って影に呪われた地の精霊を助けるよりも難しいのは確かだ。
ただ……例えば自分の演じている舞台の観客席で人が刺されたとして、助からないほどの深手を負っていると分かっていても、私は舞台から飛び降りて声をかけ続けるだろう。
「っ……」
恋人と言われて押し黙ってしまったアスタリオンの傷の程度は、まだ分からない。一生分からないままかも知れない。
だからと言って彼を愛していることも、恋人だと皆に対して認めたことも撤回しない。
父親に言わせれば芝居の途中で舞台から飛び降りるような役者は、到底芸人とは呼べないらしいのだから。
「心のままに在るといい、アスタリオン。お前が獣だろうが恋人だろうが、私は愛している」
くしゃりと音も立ちそうな勢いで、アスタリオンの表情が歪む。
ああ。こんな話をして、そんな顔をさせるつもりは無かったのに。
だが仕方がない。芸人ではないわたしの弁はこうだ――演技はもうたくさんだ。心が通じないと虚しくなるのも!
「ヴァリス」
「求めよ、然らば与えられん」
幼い頃、喉から血を吐くまで……実際は酷い咳が出ただけだが、とにかく練習したセリフを吐く。ギルドの九本指のような、犯罪組織の元締めが貧しい青年を盗みに走らせる時のセリフだった。
くしゃくしゃの彼の顔が、疑問に解ける。それはなんだ、と。
「これは芝居のセリフだが、お前もそうだ。求めるのなら与えられる、そして求めなければ与えられない」
私は舞台から飛び降りてでも、アスタリオンの全てを救ってやりたい。満たしてやりたい。幸せや喜びを享受してほしい。血の吸われ過ぎで死ぬのは嫌だが、覚悟の上では死んでも構わない。
残念な事に私は英雄でなければ白馬に乗った王子でもないが、芸人ではある。昔読んだ世界を救う物真似師の物語のように、人を救う真似ぐらいなら出来るだろう。
いや、やらなくてはならない。真似ではなく、本当に。他でもない彼のために。
父親が死ぬまで救われる事のなかった、あの日の私のためにも。
止まったままの手を取って、指先に口付ける。
「ちなみにな、私は獣の躾なんかやったことはないし、やりたいとも思わない。動物使いは私の持ち芸ではないし、ドルイドじゃないが……自然のままが一番だと思う」
二度、三度と赤い瞳が瞬き、口付けを受けたアスタリオンの手が彷徨う。
「ヴァンパイアは、自然の摂理に反しているだろう」
またもや真っ当なことを言われてしまい、ヴァリスは小さく呻く。
全く持って正論だったがそこに人の揚げ足を取る時のような笑顔はなく、戸惑いだけがそこに取り残されていた。
今日のアスタリオンは一体どうしてしまったんだ? 疑問は生じるが、吟遊詩人の舌は怯むことなく回る。
「肉体はそうだ、だが心はどうだ? ヴァンパイアにだって欲しい物はあるだろう、欲しくない物もあるだろう。やりたいこともあれば、やりたくないこともある。それでいいんだ。私にだって、やりたくない役ぐらいはある。オペラなんだが、休憩を挟みながら四日間演る有名なものがあってな……それの主役は意地でもやりたくない」
「……主役なのにか?」
フッ、とアスタリオンがやっと元の調子に笑う。ああ、良かった。
「主役だからだ。ほぼ全幕に出ずっぱりで歌いっぱなしなんだぞ? どれだけ辛いか想像出来るか?」
「演じたことはあるんだな」
彼は身体を横に退けると、横になったまま頬杖を突いて楽しそうに話を聞く姿勢に入る。
私の熱を持った身体も、いつの間にか冷めて元通りになっていた。
「ああ。もちろん名誉ある役ではあるんだ、選ばれて光栄だった。私の芸歴の中で最も輝かしい部類に入るが……」
情熱的なセックスの代わりに、休憩を挟みながらでも四日間歌い続ける事の何が辛いかの話で夜は更けていく。
とびきり可愛い彼の獰猛な一面を見れないのが残念でもあったが、これが……アスタリオンの示したい、本当の愛情のような気がした。
