休息日

 バルダーズ・ゲートと呼ばれるその街は、いつしか霧に包まれるようになった。
 下層も上層もなく、月に一度の晴天の日以外は常に厚い霧が覆い、人々を太陽から遠ざける。まるで、街が太陽を嫌っているかのように。
 だが、厚い霧の中でも人々は変わらぬ営みを続けている。洗濯には困るようになったが、それでもだ。
 もちろん、霧が出始めた頃にはよく騒がれた。ある日気付けば隣人の爪が鋭くなっていたり、瞳が赤くなっていたり、会う度に口元を拭っているだとか……死んだはずの恋人が、青褪めた顔で笑っているのを見た、などと。
 今ではヴァンパイアが大手を振って街を闊歩している光景も珍しくはなくなった。正確には、その眷属だが。
 ともかく、こうして霧に包まれるバルダーズ・ゲートは以前の灰色港と呼ばれる事が増え、そして新たに『薄暮の街』とも呼ばれるようになって久しかった。

 ……いや。今は長命種の間でさえ、世界は霧に包まれているものだという認識だ。

 

「休みなく統治する、というのは比喩だと思っていたんだが」
 ザール宮殿の執務室。机に積まれた決裁待ちの書類に目を通していたアスタリオンが顔を上げると、愛する配偶者が苦笑いを浮かべていた。
 顔に派手な傷痕が残る青い礼服を着たハイエルフの男が、書類を手放さないアスタリオンを見て更に言葉を続ける。
「今日は晴天の日だ、今指示を出しても私達の子は動けない。少し休んでも良いだろう」
 アスタリオンの前で彼は両手を腰に当て、胸を張る。
 ああ、俺の配偶者は可愛いな。いやそうではなくて。
「もう一ヶ月経っていたのか?」
 晴天の日の目的は大まかに二つある。
 一つは、ヴァンパイアに血を捧げる全ての生き物への慈悲。
 そしてもう一つは、執務に没頭するあまり時間感覚を忘れる己への合図。スポーンを入れるために締め切っているカーテンの向こうが晴天だという事は、目の前の愛しい人が例えどれだけ遠くへ行っていても帰ってくる日。
 つまり休息日だ。
「そうだぞアスタリオン、つまりお前はこの可愛い私を一ヶ月も放っておいたという事だ!」
 さあ構えと言わんばかりに堂々と述べているが、同時にアスタリオンへと届く念話からは呆れと怒りが伝わってくる。
 曰く、だから晴天の日は七日に一度にするべきなんだ、各地を見て回って暇を潰すのにも限度があるし、人間達に洗濯物が乾かないと文句を言われる私の身にもなれ、と。
 ……俺の名誉の為にいくつか補足をすると、領地を見て回り得た土地の現状を伝えるという大役は、彼が自分で言い出した仕事だ。
 今やフェイルーンだけでなく世界中に広がる薄暮の元、ヴァンパイアを含むアンデッド達と強くも脆い人間達を共存させるには、互いを殺し合わせるような出来事は未然に防がなければならない。そう言って日夜あらゆる場所へポータルを開いて飛び回っている。
 人間達が洗濯に不満があるのは、世界を覆う霧に異常はないという証左でもあった。
「一ヶ月もか、我ながら恐ろしい重罪を犯したな」
 椅子から立ち上がり、控えさせていたスポーン達に視線を送る。
「何も受け持っていない者は全員、明後日まで休め。外に出ている者にも伝えろ」
「はい、ご主人様」
 真っ先に一礼と返事をしたティーフリングのスポーンに続き、二人のスポーンが部屋を出て行く。休息と聞いて、全員どことなく嬉しそうな顔だ。
「ほら見ろ! あの嬉しそうな顔!」
「休みが嬉しいだけだろう」
「何を言うんだ、働き詰めのお前を宮殿中で心配していたんだぞ? あの子達は主人がやっとまともな休みを取って安心したんだ」
 私だってかなりヤキモキさせられた、と彼は付け加える。
「アスタリオン、お前が統治者として働いている様はとても誇らしいが……無理してほしいわけじゃない。少し休んだらどうだ?」
 そう続けて、困り果てたように眉を寄せる彼が愛おしい。
 不死の恩寵を与えた日から、いや、自らの恋心を自覚したあの日から愛おしくなかった日など存在しない。
 あの時の俺に、自由と全てを与えた永遠の恋人。
 俺の美しさへの賞賛を、得意ではないと言いつつ書くことはやめない愛の詩を、芸人であった彼が観客へ向けていた誠実さを、長年磨き続けてきた芸を、美しい肉体と心地良い体温、そこに宿る高貴な精神を。
 そして七千と七人、更には怪物狩りまで皆殺しにした邪悪を、俺に捧げた。
「ヴァリス」
 名を呼べば、彼は息すら止める。
 主人の言葉を一句一言も聞き逃すまいとする姿に、執務続きで遠ざかっていた独占欲が戻ってくる。跪くよう指先だけで命じれば、笑顔で両膝を床に突いた。
 世界を薄暮に包むまでになったこの強大な闇の力は自由を得るための目的であった。それが彼を守る術として手段となり、手に入れてからは世界を征服するための力となり、今はまた、彼を守るために世界を霧で覆っている。
「お前はいつだって可愛いな、何が欲しいんだ?」
 物欲しげに見上げてくる赤い瞳と首の右側に残る噛み痕が、俺に全てを捧げた証。あの日捧げられた全てを、俺はまだ返せていない。
「私の願いは変わらない。世界より何より、お前が欲しい」
 言い放った瞳の奥に、身震いするほどの欲が見えた。
 何を愚かなことを、返しきれるはずがない! 今や彼は闇の配偶者、ヴァンパイアの花婿だ。いくら与えたとて飢え続ける。
 世界は要らないと無欲に振る舞って見せていても、彼を本心から慕う領民や夜の子供達が居たとしても、慕う者達に囲まれて幸せそうに笑っていても。
 しかも極上の血や金銀財宝、陰惨な芸術品のような分かりやすいものでは決して満たされない。
「ああ、何年経っても断れそうにないな」
 他でもない、俺に飢え続けるヴァンパイア。俺に全てを捧げて力を与え自由にして、緩やかに支配する。
 メフィストフェレスの祝福も、この渇望までは取り除けなかったようだ。
「ん、ん……ぅん、ふ……!」
 その顎首を掴んで口付けてやっても酷く甘いばかりで、全く支配者らしくない。普段は鋭い言葉を運ぶ舌を口内ごと蹂躙すれば、分かりやすく身体が跳ねる。
 ずっと続けていても構わないと考えるのは、支配する者の身勝手な施しか、奉仕する者のささやかな欲望か。
 キスにしてはかなり長い時間をかけた後、やっと唇を離せば俺達はどちらともなく吐息を溢す。
「アスタリオン……なあ、世界はもう統べたんだ、少しと言わず、長く休んでもいいんじゃないか?」
 満たしてやったはずなのに飢えて行く。満たされながら欲望が膨らむ。
 一ヶ月も世界を飛び回っていたのなら、同じだけ宮殿に閉じ込めてゆっくりと愛でていたい。
 いや、ここ数百年は霧が覆う範囲が増える度に、覆われた土地へ足を運んでは姿を人目に晒していたんだ、一ヶ月で済みそうにない。
「そうだな。二人でしばらく休むとしよう」
 寝室まで歩いて行くのすら面倒で、顎首を掴んだままもう片手で指を鳴らして転移する。景色が変わり掴んでいた指を離して彼が立ち上がった途端、すかさずベッドへ押し倒した。
「アスタリオン! はは、可愛いな……」
 ヴァリスは笑ってのし掛かる俺を抱きしめる。
 この数百年、彼が領地中に喜びや幸せを振り撒いていたのなら、今からは俺が独り占めする番だ。元はと言えば、俺の配偶者……俺の宝物なのだから。
 今すぐ世界に霧を戻してやりたいという思念が漏れたのか、カーテンの隙間から差す光が段々と弱くなっているのが見えたが、休みだから放っておこう。

 


 

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