朝の目覚めと聞いて、キミは何を連想するだろうか。
未だに暗い寝室の中や、体温で温まったベッドの温もりか……私にとって最も身近な物は、スマートフォンが鳴らすアラームの音だ。
お気に入りの曲のあるワンフレーズのメロディに設定してから、もう何年も経つ。そう、あれは確か……
「……ん、もう朝か……?」
聞き覚えのあるメロディが流れる中、スマートフォンの液晶が発光し、セットされたアラームの時間である事を表示している。
朝の5時。出社にしてもやけに早い時間に、鏡は首を傾げた。
次いで、スマートフォンの眩しい液晶が照らす枕を見て、気付いた。
……いつも使っている枕ではない。いや、そもそも寝具からして違う。畳に敷かれた布団ではなく、ベッドで寝ていたはずだ。
出張先の宿泊施設かと一瞬考えたが、恐らく違う。
そもそも出張した覚えも無ければ、和室で眠るビジネスホテルを取るはずもない。
今握っているスマートフォンも現在使っているはずの機種ではなく、その二世代ほど前の……今や分解され中身のレアメタルがどこかの基盤にでも再利用されているであろう、思い出の機種だった。
布団から這い出て枕に肘を置いたまま上半身を出し、辺りを見渡してみる。
太陽の気配はするが、未だに出てはいないようで部屋の中は暗い。耳を澄ませば、まだ寝ているのか数人の呼吸音が聞こえる。
「……」
フレンズを誘って遊びにでも来ていた覚えはない。
手掛かりはないかともう一度スマートフォンの画面を見てみると、そこにはOctoberとあった。10月?
「まさか……」
最早おかしいという一言では済ませられない。自分の記憶が正しければ、今は6月のはずだ……
スマートフォンのロックを解除して、カレンダーアプリを開く。やけに詰まったスケジュールを確認するのは後にして月毎の表示にすれば。
「…………五年前、だと?」
年間カレンダーに移行するボタンには、自分にとって五年前であるはずの年数が表示されていた。
画面を一つ戻して、一つ一つスケジューリングされているイベントを開いてみる。
設定してある行き先にはどれも心当たりがある。五年前となれば、尚更。
「修学旅行か」誰も起こさぬよう、息を吐くように私は事実を再確認した。
周囲に居るであろうルームメイトを起こさないように布団の中で一人途方に暮れていると、隣の布団からもそもそと何かが動く音がした。
ガールズ達との相部屋だったのは覚えているが、流石に布団の配置までは正確に憶えている自信がない。
しかし当てずっぽうで呼んでみて、もし間違えてしまったとしたら……本人が傷付くのは間違いない。
鏡が必死に記憶の引き出しを探していると、もそもそと動いていた布団の塊から声がした。
「うーん……カガミ……」
この声はミシェルだ。今も昔も、彼女達の可愛らしい声は変わらない事に、鏡は安堵した。
「ミシェル。まだ朝も早い事だし、もう少し眠っていたらどうだい?」
カーテン越しにも陽の光が差すようになり明るくなってきた部屋の中で、鏡は眠たそうに瞼を擦る影に声を掛けた。
「ん……ミスター・鏡こそ、もう少し寝ないの?」
「私はいいんだ。目が冴えてしまって」
彼女の方を見ると、上体を起こし、グッと伸びをしている様子が見えた。
彼女もこのまま起きる気なのか……と鏡が思っていると、急に腹の辺りが重くなる。
「グハッ……!?」
どうやら伸びの姿勢のまま、こちらに倒れ込まれたらしい。自分の腹の方を見れば、ニンマリと笑った彼女と目が合った。
「ウフフ……カガミサン?」
な、何だこの……展開は。
女性に好かれる事は吝かではないが、今はどこか薄ら寒い。
自分から触れるのも憚られると、鏡は腕を頭上に避けてみるが……どうにも自分の逃げ場を無くしてしまっただけのような気がしてくる。
「今、二人きりよね」
「い、いや違うが」
「皆寝てるのに?」
「寝ているから違うんだ、ミシェル」
するりと滑ってくる手のひらが肌を撫でる度、ぞわぞわとした何かが走る。
これって、もしかして、このままだと、デッドラインを超えてしまうのでは……?
「ミシェル、その」
「カガミ……」
熱気に満ち溢れた眼差しが、薄暗い部屋の中で光って見える。
止めようにも自分から触れるのはポリシーに反する。
だからと言ってこのまま止めなければ、自分にさえ想像も付かないような出来事が自分を……主に自分の身体を、襲うような気がした。
「ミシェ――」
名前を呼ぼうとした途端、ミシェルの後ろから人影が彼女に覆いかぶさる。
「グハァッ!」
「ミシェル! 抜け駆けはダメっていつもあなたが言ってるじゃない!」
この声はビクトリアの声だ。彼女はミシェルの更に隣で寝ていたらしい。
「何の騒ぎ?」
「どうしたの?」
反対側、鏡の左隣からも声がする。
セシルとケイトの声だ。二人とも心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「ああ、別に心配は要らない。さ、ミシェルもビクトリアも、私のために争わないでくれ」
ミシェルとビクトリアの名前が出た時点で二人も何が起こったか察してくれたらしい。肩をすくめただけで、それ以上は何も言わなかった。
その後、収拾を付けるのに多少の時間は掛かったが、鏡は無事に宿泊していた旅館の朝食に間に合ったのだった。
今日は修学旅行の二日目に当たる。確かこの頃は、初めて食べる日本の朝食にワクワクしていたんだ。厳密に言えば小学生の頃以来になるが、その頃の記憶は今でも曖昧なままだ。
今この身体を操る私……つまり、この身体より五年後の私からすれば、そう心躍るような物でもなくなってしまったが……意識はそうでも、身体は未知の匂いに空腹を刺激され、ぐう、と音を鳴らした。
ウェイターに言えばナイフとフォークの用意もある、と皆に説明してから、大宴会場の割り当てられたスペースに誘導した。一人ずつ配膳された朝食は、白米と味噌汁、蓋のされた陶器(恐らくは茶碗蒸しだ)と、いくつか並んだ小鉢達。
小鉢の中からは焼き鮭、煮豆、生卵、たくあん、味付け海苔などが顔を覗かせる。今思うと決して上等な物ではない。
しかし『文化体験』という名目が付けばこのメニューが一番、当時の私の興味を惹いたんだ。
ちょっとした説明を終え、皆めいめいに席について少しした頃。
私が生卵をどう食べるか考えていると、別の団体客がこの宴会場に通された。
ゾロゾロと歩いているその集団を見る限り、ハイスクールの学生達らしい。
その群れの中を何の気なしに眺めていると、その中で文字通り頭ひとつ抜けた男が目についた。
紺色の生地にぽつんと金色のボタンが付いた黒い鍔の学帽を被り、坊主頭の男子生徒何人かに囲まれた、ぼさぼさの黒い髪を腰元まで伸ばした、男子高校生。
「サムライボーイ……」
轟金剛。今から五年後、私のいる現在では轟商事営業部番長という謎の肩書きで務める、なんともむさ苦しい男だ。
五年前からあまり変化のないその姿に、鏡は安堵すればいいのか、相変わらずだなと嘲笑えばいいのか分からなくなった。
あの彼が五年後にはもっと厳しい顔になって、体付きはもう少し肉厚になってから……自分と出会うのか。
「ん?」
予期せぬタイムトラベルを経てから、鏡はてっきり自分の過去へ戻ったのだとばかり思っていた。
だが、鏡の記憶が正しければ……学生の頃にはすれ違った事もないはずだ。
確かに今のように修学旅行には行った。行ったが、その時には特に何事も、少なくとも一度見たら忘れられないほどのむさ苦しい男にあった覚えはない。
……この私は、一体何だ?
何故サムライボーイと、今、ここで、出会っているんだ?
考え込み始める寸前、彼と目が合う。
「よぉ、鏡。おはようさん」
何を考えたのか、彼は小さく手を振って挨拶をしてきた。
彼は自分の方を向いて、はっきりと「鏡」と呼んだ。
つまり昨日までの私は、彼に自己紹介をしたのか?
自分から繋がりを持とうと?
手を振り返すかどうか悩んでいると、轟は首を傾げ、やがて鏡の方を見るのをやめてしまった。
鏡の脳裏に、少し物哀しそうな顔を焼き付けて。
轟との再会は早かった。朝食を終え、ロビーで今日の行程を確認している所に彼はやってきた。
「鏡、朝メシの時は寝ぼけてたのか?」
どうやら彼は朝食の時に私が何かしらのアクションを返さなかった事について、単純にまだ夢うつつから抜け出せていなかったのだろうと思っているらしい。
「……すまない、キミに声を掛けられるような事をした憶えは無いんだが」
「そうか? お前さん、昨日はあんなに楽しそうだったのによ」
少し傷付いた風に言う彼に、僅かに胸が痛む。
「……いや、昨日はちょっとやり過ぎだったよな。すまねぇ。詫びに俺の知ってる……なんだ、ふぉとじぇにっく? な場所って所に行こうぜ」
「フォトジェニックな……場所?」
「おう。昨日対決した時に約束したじゃねぇか、お前さんが俺から一本でも取れたら、一緒にふぉとじぇにっくな場所……景色のいい所に案内しろってよ」
彼のようなむさ苦しい男に案内されて?
鏡はますます、過去の自分が取った行動の理由を理解するのに苦しんだ。
少なくとも今の、轟商事営業部係長であるはずの自分の五年前では、彼に声を掛けたりはしない……と思う。
こうして目の前に彼が姿を表す事が無かったから、当時の自分が彼と出会ったらどうなるか、断言は出来ないが。
「私が言ったのか?」
それでも信じられず、素直に疑問を述べれば。
意外にも、そこに口を挟んだのはガールズ達だった。
「確かに言ってた」と頷いたのはケイトで、ミシェルは楽しそうに背中を押してくる。
「え、本当に言ってたのか!? 私が!?」
「漢は約束を守るし、嘘も吐かねえ。お前さんは昨日の事を憶えてないかも知れねぇが、約束はした。行くぞ」
そう言って彼は戸惑う私の腕を取る。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 私は皆を引率しなければ――」
手首を捕まれ、前のめりになりながら振り向けば、ベリィがガールズ達の後ろで修学旅行のしおりを持って笑っていた。
グッとサムズアップしてみせる彼女に任せて大丈夫なのか。ほんの少し不安にならないでもなかったが、これ以上後ろを向いていては無遠慮に引っ張られて転けてしまいそうだ。
「お前さんが喜びそうな場所は一箇所だけじゃねぇ、早く回らねぇと日が暮れちまうぜ!」
楽しそうに人の腕を引っ張る彼に、鏡は前を向く。
そして紺色の背中に塗り潰された視界の中、言った。
「NO! 乱暴に引っ張るな!」
鏡は彼の考えるフォトジェニックな景色に全く期待はしていなかったが、実際案内されてみると彼は彼なりにフォトジェニック、つまり写真に残したいほど美しい景観について考えたのがありありと分かった。
それは拾い上げたもみじであったり、観光客で賑わう街並みであったり。
土産物を物色する知り合いと顔を合わせれば……
「勝負じゃ!」
「私も居るのに片っ端から勝負しようとするな!」
勝負になだれ込もうとする轟を、鏡が止める羽目になった。
……こっそり跡を付けてきているつもりらしい彼の父親や、どこまでも並ぶ鳥居、川に架かる大きな橋の上から望む紅葉、彼を追ってはるばる都内からやってきたパンダ。
「一体彼はどうやってここまで来たと言うんだ!?」
「知らねえ!!」
彼のフンドシを狙うという凶悪なパンダに一緒になって追い回され、小一時間。
日も高くなり、気付けば既に正午を少し過ぎていた。
「ゼッ……ハア、危うく取られる所だったぜ」
息を整えながら学帽の向きを直す轟に鏡は色々と言い返したかったが、その一つ一つを口にするのも疲れるだけだと思って諦め、代わりに時刻が表示されたスマートフォンの液晶を見せつけた。
「見たまえ、もうこんな時間だ。フォトジェニック・サーチは一旦中断して、ランチと行こう」
「賛成だ。どっかアテはあんのか?」
「キミとのランチだろう? 高いものは食べないぞ」
これが女性との食事であれば、一緒に食事をするという素敵な一時を過ごすために手間も時間も惜しまない。
が、何せ相手は未来のいけ好かない部下なのだ。何故手間も時間も掛ける必要がある?
「何でもいいぜ。お前さんの知ってる店ならマズいって事は無さそうだしよ」
「何故そう思うんだ?」
そう尋ねれば、彼は一瞬きょとんとしてから答えた。
「お前さん、はるばる海渡った旅先でマズいモン食う気は無ぇだろ」
……確かにその通りだ。
「少し待ちたまえ。付近のレストランを探してみよう」
「俺、洋食が食いてえな」
「キミのリクエストに応える必要は私には無いが?」
「いいじゃねぇか、一緒に食うにしたって奢る訳じゃねぇだろ」
「当たり前だ」
「なら、食いたいモンぐらい言ってもいいじゃねぇか」
そう言われ、鏡は渋々スマートフォンが表示する検索候補の中から洋食店を選びだした。
歩いていくより電車に乗って最寄り駅まで行った方が早いらしく、二人はローカル線に乗って暫し揺られた後目的の駅で降り、目当てのレストランへと歩いていく。
「何故洋食がいいんだ?」
「特に理由は無ぇが、外だと無性に食いたくなるんだよな」
「ふぅん」
ひたすら量を重視しているとばかり思っていたが、彼にも一応『食べたい物』という概念がある事に、鏡はほんの少し感心した。
「アレだ、その……ここだけの話にしてほしいんだが」
「ああ」
「納豆オムレツが食いてえんだ。前どっかで食ってからずっと家でも作ってはみているんだが……上手く行かなくてよ」
何が恥ずかしいのか、赤く染まった頬を学帽の鍔で隠そうとしながら彼は言った。
「ふむ。そんなジャンクな食べ物は、これから行くレストランには置いてないだろうが……」
納豆オムレツ、納豆の入った卵焼きなんて物が食べたかったら、居酒屋に行くべきだろう。
ガックリ肩を落とす轟を横目に、鏡は頭の片隅で何故オムレツが上手く行かないのかを考え始める。
彼の手料理なぞ、恐らくこれから先も食べる機会は無いだろうが……再現に挑戦しようとする程度だ、恐らく料理そのものには問題が無いのだろう。
「ところで、そのオムレツは何故上手く行かない?」
なら、何故失敗しているのか。そこを見直さない限り成功も有り得ないだろう。
「それが分かったら苦労しねえよ、でも……納豆がデカ過ぎるっつーか、食ってる時に口の中でまとまらなくてよ。外で食った時はあんなんじゃなかったんだが」
鏡は件の料理を食べたことはないが、五年後の彼が箸でつついているのを見た事はある。つぶさに観察した事は流石に無いが……
「もっと粒の小さい納豆を使ったらどうだ?」
「そう思って小粒納豆で試してみたんだが、まだ……」
「ひきわりは試したのか?」
ぱちり、と呆気に取られた様子で彼が瞬きを一つ。
「そうか……アレはひきわり納豆だったのか!」
「恐らくは。更に言うなら業務用の、チューブから出したようなものだと思うがね」
「詳しいな……日本に来るのが初めてだとは思えねえ」
言われて、鏡は自分の失言に気付いた。
そうだ、ここは五年前……当然、この時の私はひきわり納豆も、納豆の存在も知らないはずだ。
「今はインターネットで調べれば幾らでも情報が出てくるのさ、サムライボーイ」
「そういうモンか。便利だな」
鏡のその場しのぎの言い訳で納得したのか、轟はそれ以上深く突っ込んで来るような事は無かった。
気を付けていたはずなのに……唇を僅かに噛み、鏡は今し方の失言を更に悔いる。
話し過ぎたと言えば、そうだ。元の時代の轟とは業務上必要な事柄以外で会話した事は殆ど無い。軽く記憶を浚ってはみるが、精々挨拶をいくつか交わした程度だろう。
プライベートを語り合うなんて以ての外だったが、こうして過去の彼と話すのは……想像していた退屈な物とは全く違って、新鮮な楽しさがある。
そもそも、ここまで気安く接してくる同性の友人は居ない。
……私の部下である轟も、話してみればこうやって年相応に笑ってみたりするのだろうか。
ぼんやりとそんな考えを頭に留め置いたまま彼の横顔を見ていたら、不意にこちらを向いてきて思わず顔を逸した。
食事を終えてレストランを出る頃には午後1時を少し過ぎていて、二人はまたフォトジェニックな場所を巡る事にした。
午前と違う所があるとすれば、互いの間で交わされる言葉が増えた事だ。
「お前さんはどういう……ふぉとじぇにっく? な場所が好きなんだ?」
「そうだな……強いて言うなら夜景が好きだ」
「夜景?」
想定していない答えだったのか、轟は暫し視線を泳がせ、頭の中で思い当たる物を探し始める。
「……あぁ、街の灯りか。俺も嫌いじゃねぇな」
納得したように頷き少し遠くを見たその瞳に、過去に見た景色を映しているのか。
理由もなく急に腹立たしい。歳を持ち出すのはあまりフェアではない事ぐらい分かってはいるが、自分と八つも違う(見た目では三つしか違わないが)子供が、一体何を見たと言うのか。
「キミがどんな夜景を見たかは知らないが、これから見る物に勝てはしない」
「なんでだ?」
「この私と共に見る景色の方が素晴らしいからさ!」
夜景は確かに美しい物だが、一人で見る物ではない。愛を分かち合う、そんな誰かと見るから美しいのだと鏡は思う。
別に隣の彼とはそういう仲ではないが、誰かとシェアするからフォトジェニックには価値があるのだ。
「そうか。そりゃ楽しみだな」
まだ日が高えから、何時間か後の話だけどよ。などと言いながら、彼は笑う。
「……」
決して自分の部下が見せることのない、悪戯っぽいような、子供のような、笑顔。
「……そうだな。さ、次のスポットに案内したまえ」
言いながら彼の左腕を掴むと彼は驚いたように目を見開き、深く頷いて再び先導し始めた。とても恥ずかしくなって、すぐに腕は離してしまったが……
慌ただしかった午前とは違い、ゆっくりと、一歩一歩を噛みしめるような歩みで通る街は、また違った顔を見せる。
風に巻き上げられて宙を舞う落ち葉や、建てられた当時のままの街並み。しかしそこには今の人々の営みがあり、自分たち以外の修学旅行中らしい団体も居る。
「彼らも修学旅行か」
「だろうな。先頭に居るのが先公だろ」
手を頭の後ろで組み、轟は興味なさげに言う。
「センコー?」
「先生のことだ」
「なるほど」
その修学旅行の団体から離れた後も、通り掛かった仏閣に二人参拝したり、写経をしたがる鏡を轟が「時間掛かるからやめとけ」と諭して止めたりしながら、彼が目指す目的地へと歩いていく。
スマートフォンのヘルスケアアプリを確認すると相当な歩数歩いているようだが、不思議と遠くは感じない。
寧ろ、今ここでもうすぐ着く、と言われてしまえば不満を抱くであろう自分が容易に想像出来る。歩きながら眺める彼の、楽しそうな横顔は見ていて飽きない。
待て。それだと私が彼の横顔ばかり眺めているという事にならないか?
「サムライボーイ、キミの言っていた『フォトジェニックな場所』までは、あとどのぐらいだ?」
隣を歩く轟は足を止め、少し遠くを眺める。
「んー、そうだな……そろそろ戻るか」
「戻るのか?」
このままもっと遠くへ行くのではないかと鏡は思っていたが、予想が外れた事に頭を捻る。
「他の所も回りてぇと思って連れ回したのもあるが、俺がお前さんに一番見せたい景色ってのは、夕焼けだ」
寒くなってきた時期の夕焼けは綺麗だからな、と心の底から楽しそうにする轟が、鏡は何故か眩しく感じた。
「キミはどこで夕焼けを見るつもりなんだ、サムライボーイ?」
「旅館の裏に山があるんだがよ、その天辺だ」
つまり、山頂まで登れと? つい顔を顰めた鏡に、彼は笑う。
「山って言ったってそんな高くねぇよ。歩いて登れるぐらいだ、杖も必要無ぇ」
「どうだか……キミのモンスター染みた体力に付き合わされるのは勘弁したいが」
この男の事だ、やれ勝負だ何だとこの身体の私にも言ったんだろう。褒めてもいないのに誇らしげな顔をするのがどうにも……
ともかく。私達は再び、どちらからともなく歩き始めた。
「なぁ、鏡」
「何だ、サムライボーイ」
お互い歩くのは止めず、前だけを見て会話をする。
「お前さんの事、名前で呼んでもいいか?」
「…………好きにしたまえ」
「俺もその、金剛でいいからよ」
ああ、横なんか向いてやるものか。
どうせ今頃、真っ赤な顔を隠すために帽子の鍔でも弄っているんだ。
「何故そんな所で照れるんだ、金剛」
「いや、何か……小っ恥ずかしくて」
「キミが言い出した事だろ、全く……」
あれだけ輝いていた太陽は、少しずつ傾いてゆく。
なんとなく、もうすぐこの奇妙な一時は終わるのだと鏡は感じた。
旅館の裏にある小さな山は、確かに轟の言う通り道具無しでも登れるような山ではあった。
決して平坦な道ではないし、それなりに疲れもする。
だが……
「……」
その頂上から見渡す景色に、鏡は何も言えなかった。
真っ赤な夕日が地平線に沈んで空を染めて、自分の赤が、風に揺れる紅葉の赤が。隣に立つ紺でさえ、あの大きなの緋色の下に置かれる。
これから夜を招く太陽は別れを惜しむかのように、盛大に辺りを染め上げて沈む。
「な、ここからだとデカく見えるだろ。慶志郎」
奇妙な旅の終着点としては、決して悪くない光景だ。
「ああ。とても……大きいね。空も赤く見える」
「お前さん、赤色が好きなんだろ? だったら気にいるんじゃねぇかと思ってよ」
にっこりと、屈託のない笑顔を見せる轟は、鏡にとって最早ただの「むさ苦しい男」ではなくなっていた。
朝から色々と連れ回された事に関しては言いたい事が山ほどあったが、そんなものは脇に置いておけばいい。
「金剛」
横に立つ彼を見て、声を掛ける。
「なんだ、慶志郎」
急に畏まってよ、どうしたんだ? なんて気安い言葉を掛けてくる、親友。
鏡はなんと言えばいいか一瞬迷い、瞬きを一つして。
「今日は楽しかった」
赤く照らされた彼の微笑みに、はっきりと言った。
……聞き慣れたフレーズが聞こえてくる。
スマートフォンのアラームが鳴っているのだろう、鏡は手で音のする方を探って、つるりとした触感の何かをつついた。
「……もうこんな時間か」
久しぶりにとても楽しい夢を見た気がする。何を見たかはあまり憶えていないが、とてもエキサイティングな物だったに違いないと、鏡はベッドから身体を起こす。
時間は午前6時。早すぎることも、遅すぎることもない。今日はいい一日になりそうだ。
朝食を食べ、身支度を整え、愛車にキーを挿す。
素晴らしい一日……のはずだった。
「おはようございます、係長」
「ああ。おはよう金剛」
……好きでもなかったはずの部下に、そんな挨拶をしてしまうまでは。
