その空間に足を踏み入れた瞬間、整髪剤とシャンプーの香料が香る。
やけに広く感じる空間は入口側の一面がガラス張りになっていて、スタイリングチェアとその前にある鏡が壁に沿って並んでいるのが外からでも見えた。
何度か訪れた事があるにも関わらず、入り口に敷かれたウェルカムマットの踏み心地には一向に慣れず、思わず眉を寄せる。
嗅ぎ慣れないが決して不快ではない匂いに包まれ、緑地に黄色のフリルと飾りボタンが付いた派手なタンクトップの男が現れると、轟は口元を緩めた。
「ボンジュール、金剛君」
腰からシザーケースを下げたその男は和やかに出迎えてくる。
昔、番長として挑んでくる彼等を迎え撃っていた頃なら、もっと好戦的な口振りで同じ挨拶をされ、すぐさま対決に縺れ込んだものだが……今は違う。
「よぉ、今日も頼むぜ」
轟は案内されるままに黒革張りの座席に座り、首にタオルを巻かれ、頭から下をすっぽり覆う丈の白いクロスを着せられた。
「早速シャンプーからやって行こうか」
男が手元のコンソールを操作すると、軽快なビープ音の後に轟の視界が上向く。
そのまま顔の上に乾いたタオルを乗せられて、轟は目を閉じた。
今、自分の髪を洗っている彼とはもう長い付き合いになる。
粛清のマダラ。轟高校総番長として、時に挑み、また時に挑まれた好敵手。
高校卒業を機に轟が修行へ出る前まで学ランを着ていた彼はスーツというありきたりな物には収まらず、親の後を追う事も無く。今の美容師という道を選び、轟がサラリーマンとして働く頃には小さな店を持つまでに至っていた。
「どこか痒い所はあるかい?」
「いいや、ねぇな」
轟が初めてこの店に入ったきっかけは、轟商事の社内でたまたま出張サービスで来ていた彼と出会い、店を始めたと聞いたことだった。
まさか自分の好敵手に髪を預ける事になるとは……と最初は思ったが、通ううちに慣れ、そのような戸惑いに迷わされる事なく自分の髪の手入れを任せるまでになっていた。
「キミの髪は相変わらずボリュームが凄いね。ちゃんと櫛とか入れてる?」
「出勤前にはちゃんと整えてるぜ」
「トリートメントは?」
「……トリートメント?」
シャンプーの最中、段々と忍び寄ってくる眠気を我慢しながら、轟はマダラの質問に答える。
最初に訪れた時は緊張で身体が固まってしまい、シャンプーが終わっても暫く動けない有様だったが、慣れた今となっては眠気さえ襲ってくる。
「心当たりがないならいいよ。ボクが後で教えてあげるから」
「お、おう……悪いな」
ワシワシと髪を撫でていた手が止まり、泡立つ音も止まる。
「身嗜みには気ィ遣ってるつもりだけどよ。まだまだだな。精進しねぇと」
「大袈裟な。まあ、キミらしいけどね」
声を潜めて笑う旧友の笑い声に、轟は頬が痒くなった。
シャワーの水流が頭皮に触れるのを擽ったく感じながら、工程は滞りなく進む。
「キミみたいに髪が長いと、お喋りを楽しむ時間が出来ていいね」
「そうか?」
「そうさ。ボクはキミと話すの、結構好きだよ」
物好きな。轟の頭の中をそんな言葉が掠めて行く。
「俺ァ口は上手くねぇぞ?」
言えば、そこが良いんだよとマダラが笑うので、やっぱり物好きだと思った。
「それで、今日はどうする?」
濡れた毛先を摘み上げながら言われ、つい「いつも通りに」と返そうとしかけて轟は口を噤む。
普段と同じようなやり取りで忘れそうになったが、今日は違う。
「手間掛けてすまねぇが、普段の倍ぐらい短く切ってくれ」
「普段の倍?」
彼にとっても予想外だったのか、驚いた様子で聞き返してくる。
「別に手間と言うほどのことでもないけど、何かあったのかい?」
……あった。今日付で豪北支社への転勤命令が下り、数日後には現地へと移動しなければならなくなった。
期限は無く、目標は高い。いつ戻って来られるか分からないのであれば、いつもより短く整えてもらった方が良いと轟は考えたのだ。
彼に整えられた綺麗な髪型が、出来るだけ長く続くように。
「……ああ、転勤命令でな」
「どこへ行くんだ」
食い気味に聞かれ、今度は轟が驚く番だった。
「豪北だ」
「いつ戻ってくる?」
「さあな……期限がある訳じゃねぇから、いつになるかは分からねぇ」
正直に答えれば、鏡越しに見る眼差しが普段とは違う光を宿す。
それは焦燥のようで、そうではないものに見えた。
「……だから、短く切ってくれ。伸び切る前には戻れるように努力する。最悪自分で切る」
暗に、他人には己の髪に触れさせはしないと轟が言えば、マダラは目を瞑って頭を左右に振る。
「いいや、キミが切ったら酷い事になりそうだ。そうなる前に一度は来ておくれよ」
「んな暇がありゃあいいけどな……」
自分の髪を掻き分けてはクリップで留め始めたマダラに、轟はため息交じりに答えた。
「暇は見つけるものじゃない、作るものさ」
切っていくよ、と鋏を持った彼がニコリと笑う。
……つまり、長引きそうなら一度会いに来いと言いたいのだろう。
「分かった分かった、髪切りたくなった時は帰るぜ」
「そうしてくれ。ボクもキミに会いたいから」
言葉と共に、少しずつ髪が切られていく。
寂しくなると思えば、確かにそうなのかもしれない。
小一時間ほど経った後。
白いタイルが見えていたはずの床は切った髪で埋め尽くされていた。
吹き付けるドライヤーの風に思わず目を瞑っていると、不意に吹き付ける熱風と音が止む。
「終わったよ、轟君」
でも、目はまだ開けないで。そう言ってマダラは柔らかいブラシを使い、轟の顔から細かい髪を払い落として行く。
「いつもの倍、キミが男前に見えるように切ったから」
そう言われて轟は薄く目を開けるが、いつもより短く切られたこと以外は変わったようには思えない。
「……変わらなくねぇか?」
「キミの新たな旅立ちに向けて、ちゃんと変えたさ」
変えたらしい箇所を指差されるが、やはり変わった所は見当たらないように見える。
「キミはあまり気にした事が無いから、分からないのも仕方ないけど。キミもボクみたいに、違いが分かる漢にならないとね」
「……そうだな。お前さんに任せときゃすぐ男前になっちまうからな」
カチャン、と何かが落ちる音がする。壁越しに様子を見れば、マダラが落としたブラシを拾い上げている所だった。
その顔は赤い。……これは、轟にもなんとなく理由が分かる。
「と、轟君!」
そういう所ズルいよキミは! という非難の声に、轟は笑う。
湿っぽい見送りは己にも彼にも似合わないから、少し誂い合って、最後にまた来てくれと言われるぐらいが丁度いいだろう。
ほんのり湿度が高い!
