上司が「家まで送っていくよ」と耳許で囁いたのを聞いた時、金剛は天変地異の前触れか何かかと思った。
女しか車に乗せないと言って憚らない、スカした上司が。
「本気か?」
歩いて帰ろうと思っていた中では嬉しい誘いだが、彼が女尊男卑の考えを持つ事はよく知っている。
だから意思確認を挟んだが、彼は鼻で笑ってみせた。
「それはコチラの台詞だ。キミと来たら呂律も回ってないし、真っ直ぐ歩けていないじゃないか。そんな危険人物を野放しにするぐらいなら、後部座席ぐらいは貸してやった方が社会のためだ」
……要するに、他人に迷惑をかける前に車に乗って、大人しく送られていろと。
言い方はともかく、有り難い申し出である事には間違いない。
「……分かりました。ありがとうございます、係長」
「礼はいいからさっさと乗りたまえ」
「押忍、失礼します」
申し出を受け、金剛は上司である鏡係長の車に乗った。
そこから何故か「やっぱりキミの家まで運転するのは面倒臭い」と言って係長の家で降ろされ、酒を一滴も呑んでいなかった彼の晩酌に付き合う事になってしまった。
背の低い小さなグラスに注がれた、ジンジャーエールと共に。
「何だ、その意外そうな顔は……」
見たことのないラベルが貼られた酒瓶と割り材のジンジャーエールを拡げたテーブルの対面から、鏡の赤ら顔が睨んでくる。
「いや……シャンパン以外も呑むんだな、お前さん」
「ああ。酔うにはこれが一番だからな」
そう言って鏡は酒を背の低い小さなグラスに半分注ぐ。金剛が後に聞いた所に寄ると、あれはショットグラスと言うらしいが。
「キミはそれ以上酔うなよ、吐いたら……」
据わった眼が真っ赤な顔色も相俟ってやけに怖い。
承知しない、とでも言われるかと思ったが、次の言葉は一向に出て来ない。彼はショットグラスにジンジャーエールを並々と注ぎ、手で蓋をするように持った。
「いいや……吐いた姿でも見たら、ワタシはキミの事を嫌いになれるだろうか」
「えっ?」
金剛が何か聞こうとする前にショットグラスの底がテーブルに叩き付けられ、静かだった部屋に銃声のような衝撃音が響く。
彼がグラスを持ち直し泡立った液体を飲み干して一息つくまでの間、お互い口を開かなかった。
まるで、撃ち殺されてしまったかのように。
「……気が変わった」
鏡はジンジャーエールだけが入った金剛のグラスを掻っ攫い、酒を注ぐ。
「キミも飲みたまえ。生憎ライムは無いが、ショットガン・スタイルならトライさせてあげよう」
金剛は金色の液体を注がれて言葉と共に返ってきたグラスを眺める。
色味自体はジンジャエールだけだった時より多少濃くなった程度だが、炭酸の泡立ちが大分減っていた。
「そのまま飲むなよ」
鏡は右手で気怠そうにグラスを叩き付けるジェスチャーをして、やって見ろと言わんばかりに顎をしゃくる。
……全くの正体不明という訳でもないが、自分の知らない酒を飲むというのは中々勇気が要る行為なのだなと、金剛は思った。
しかも場が普段自分を嫌っている上司の家となれば、尚更勇気が要る。単に腹を括って呑むだけのはずと理解しているのに、どうにもそれだけでは済まない気がしてならない。
勇気と蛮勇は紙一重。それでも……ここで引いちまうのは漢じゃねぇ、よな。
掌でグラスの口を覆い、指でしっかりと固定する。
「そのまま叩き付けて、泡が消える前に飲むんだ。グラスを割ってくれるなよ」
「……押忍」
グラスをテーブルから二、三センチ程度持ち上げ、思い切って底を叩き付けた。分厚いガラスと木目がぶつかり合い、ダンッ!と派手な音が響く。
そのまま手をグラスから離し、音を立てて泡立つ液体を金剛は一気に飲み下す。飲み口は驚くほど軽かった。
「……ヴ、ッ」
炭酸と酒の独特の風味が鼻腔を抜けて行く。前者はともかく、後者は“強烈”の二文字が金剛の脳裏を走った。
不味くはないのだが、思わず顔を顰めて呻く。通りで目の前の男も、飲み干した直後は黙っているわけだ。
「フ、ハハハ……! いいね、漢らしい飲みっぷりじゃないか」
対面で何も入っていないグラスを揺らし、鏡が笑う。
いつも見るような気取った笑顔ではなく。まるで花が咲いたように、柔らかくて優しい微笑みがそこにはあった。
あんな風に笑う事もあるのか。目の前に現れた美しい貌に、そう思わずには居られない。
「だから惚れてしまったのかな。ワタシにはその気が無いと思っていたのに」
「……あ゛?」
そして何故か、同性である金剛も思わず綺麗だと見惚れる表情のまま……彼はとんでもない事を言い始めた。
「いいや、ワタシだってキミに“惚れてる”なんて認めたくない。でも、一先ず恋愛感情という事にしておかないとマズい気がするんだ」
それは、つまり?
「どういう、ことだ」
「……キミに執着してしまっているだけで、本来そこに恋愛感情なんて全くない。無いはずだ」
目の前の整った眉間に、皺が刻まれる。吐き捨てるように言った台詞も何処か苦々しい。
「──お前さん」
「だって、そうだろ。ワタシはキミの事なんか……」
曖昧に開かれたまま、唇の動きが止まる。
嫌い、気に入らない、視界に入れたくない。
彼が口にするであろう辛辣な言葉を脳裏に浮かべ、金剛は受け止める覚悟をした。アルコールの入った覚悟では自分の心は守られないだろうが、それでも。
